2024年9月26日の一審判決、静岡地裁が再審(やり直し裁判)で、無罪判決が言い渡された袴田巌さん。
袴田事件で犯人とされた弟の袴田巌さんを支え続けたのは、姉の秀子さんでした。
58年もの間、弟の無罪を信じて活動を続けた袴田秀子さんは本当にすごいですよね。
袴田事件とは
この事件で、元プロボクサーの袴田巌(はかまだ いわお)氏が犯人として逮捕・起訴され、死刑判決を受けました。
事件の概要は、味噌製造工場の従業員4人が殺害され、工場が放火されたことから始まりました。
袴田氏は、当時この工場で働いており、警察に逮捕され、自白を強要されたとされています。
その後、自白を覆すも、物的証拠とされる「血のついた衣服」が決め手となり、1968年に死刑が確定しました。
しかし、DNA鑑定の結果、その衣服に付着していた血液が袴田氏のものではない可能性が高いことが判明し、再審請求が行われました。
袴田氏は、再審が認められるまでに約48年間、拘禁され続けました。
長期の拘禁状態により、袴田巌氏は「拘禁症」という精神病を患うことになっていまいます。
袴田巌さんが長期の拘禁生活で患った「拘禁症」とは、長期間の刑務所生活など、過酷な環境に置かれることで発生する精神的な障害です。
拘禁症は、ストレスや不安が極度に増し、精神的な不安定、幻覚、妄想、無気力、うつ病などの症状を引き起こします。
袴田さんの場合、長期間の拘禁生活と死刑執行の不安が重なり、彼の精神状態に大きな悪影響を与えました。
現在もその後遺症に苦しんでいるとされています。
そんな、袴田巌さんを支え続けたのが、4つ上の姉である袴田秀子さんでした。
袴田家の6人きょうだいの5番目が秀子さん、巖さんは末っ子で、
当初は母親が巖さんを支えており、そんな母親に巖さんは手紙を獄中から書き、母親のために自分の冤罪を晴らして戻るという目標を掲げていたのだそう。
秀子さんは何をしたの?
簡単にまとめてみたよ!
袴田秀子がすごい理由5選!
弟のために尽力した生涯
袴田秀子さんは、弟の袴田巖さんの無実を証明するために、人生の半分以上を費やしてきました。
秀子さんは、いくつかの会社の経理の仕事を掛け持ちしながら巌さんを支援するという多忙な日々を送りました。
秀子さんは経理のスキルを身につけ、自身は会社に住み込みで働き、質素に慎ましく暮らして家賃や生活費を最小限に抑えながら、切り詰めたお金を東京に行く旅費や、毎月必ず面会に行くと決めて巖さんへの差し入れのお金(1万円~2万円)にあててきたそうだ。
PRESIDENT
30万円ほどの月収は、家賃と最低限の生活費以外、すべて弟のために費やしたといいます。
面会のたびに5万円、多い時には10万円とか20万円を差し入れていました。
巌の大好物の大福もちやチョコレートもよく持っていきましたね。
私のほうは最低限の生活ができて、食べていけたらそれでよかったんです。
下着1枚買うのにも悩んで、結局、100円のものを買ったり…。
そんな生活でした。
弟のためにすべてを費やしていたんだね…
弟の袴田巖さんが拘禁症状により「自分に姉はいない」と言ったこともありましたが、それでも秀子さんは弟を支え続けました。
不動産経営への挑戦
秀子さんは、『私の人生、これだけじゃつまらない』と言って、1993年、60歳を機に銀行からお金を借りてローンを組み、浜松市内に4階建てのマンションを建て、不動産経営もしています。
これも、巌のためだったんです。
いつか巌が外に出てきた時、彼が家賃収入で生活していけるようにしてあげたかったから…
弟のことを考えて…すごい!
今ではその静岡県のマンションの一室で巖さんと暮らしているそうです。
現在もそこで、拘禁反応の後遺症が残る巌さんを支え続けています。
恨みつらみを口にしない態度
映画では終始強く明るい秀子さんだが、巖さんのされた仕打ちを思えば、警察や検察などへの恨みや怒りを抱くのが自然だろう。
しかし、秀子さんは恨み言などを一切口にしないのだと言う。
警察、検察、裁判所に対しては『役所はそういうもの、仕事でやっていることだから』と、
自身がかつては税務署に勤めていたこともあって、公的な組織の論理を体感としてわかっているから、
そこに恨みつらみをぶつけることにあまり意味がないと思っていたのかもしれません。
冤罪で弟が死刑判決を受けているのに、この姿勢を貫けるというのはすごいことですよね。
冤罪問題や再審制度について広く啓発する活動
2019年には弘前市で開催された市民フォーラムで講演を行うなど、
公の場で発言する機会を持ち、冤罪や再審制度などの社会的な認識を高める重要な役割を果たしています。
一度は死刑囚の姉として世間からの冷たい目やメディアの批判にも耐え、
ご自身が公の場に立って社会のために活動されているのは、すごいことだと感じました。
高齢にも関わらず闘い続ける姿勢
秀子さんは91歳という高齢にもかかわらず、
裁判が終わるまでは、91だろうが、92だろうが頑張っていく
このように述べており、この強い意志と決意は、多くの人々に感銘を与えています。
90を越えているのに…すごい!
袴田秀子さんの生涯が漫画化
漫画は浜松市に住む袴田さん姉弟の日常を支える「袴田さん支援クラブ」の猪野待子代表=同市=が自費出版。猪野さんが監修し、静岡市の漫画家たたらなおきさんが作画した。
東京新聞
漫画は、袴田さんの裁判の経過を中心に展開され、
1968年の死刑判決後に両親が亡くなり、孤独や世間の冷たい目にさらされ、
酒に溺れたり、約48年ぶりに釈放された弟の手を握って喜んだり、
東京拘置所に通い続けた秀子さんの奮闘ぶりが心情を交えつつ表現されているそうです。
袴田秀子のWiki経歴プロフィール
- 袴田秀子(はかまだ ひでこ)
- 巖さんの姉、1933年(昭和8年)生まれ
- 中学卒業後、浜松の税務署に事務見習いとして就職
- 22歳で結婚し、翌年に離婚
- その後、税務署を辞め、民間の税理士事務所に入り経理の知識を身に付けた
- 知人が経営する会社で経理として住み込みで働き始め、以後70代まで40年近く務めた
- 1966年に巖さんが逮捕されて以降、面会や差し入れなどの支援を続ける
- 弟の無実を信じ続けた末、2014年に巖さんが釈放
- 2024年、袴田巌さんに無罪判決
袴田秀子がすごいとの声
袴田秀子さんの努力が報われて本当に良かったね…
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