静岡地裁は9月26日、袴田巖さんに対して無罪を言い渡しました。
1966年に当時の静岡県清水市で味噌製造会社の専務一家4人が殺害され現金などが盗まれた強盗殺人放火事件、いわゆる袴田事件の再審公判の結果で、
袴田氏が逮捕されたのは昭和41(1966)年8月のことであり、再審無罪判決まで58年の期間を要しています。
いったい「袴田事件」とは何だったのか、その中で、長女の証言が不気味と言われている理由は何なのか。
袴田事件の概要
事件当時、被害者・専務の父親は、リウマチのため清水市内の厚生病院に入院しており、また彼の妻(専務の母親:当時61歳)と、
家事を手伝っていた、専務の長女(当時19歳)はそれぞれ工場横の隠居部屋(線路を隔てた別宅)で寝ていたため、難を逃れたと言われています。
袴田さんが捜査線上に浮かんだ理由は、巨漢で柔道の有段者である専務と格闘できた人間として、元ボクサーである袴田さんの名が浮上したとされています。
裁判の争点となったのは、強制的・威圧的な「自白の任意性・信用性」や、捏造されたとされる「5点の衣類」に関する点でした。
再審公判の結果、静岡地方裁判所は「5点の衣類」の共布と血痕、唯一証拠採用された検察官調書のいずれもが捜査機関によって捏造されたものとして、無罪が言い渡されました。
なお、日本で確定死刑囚が再審無罪となったのは戦後5例目です。
被害者一家の長女の証言が不気味?
事件が起きた前の日の晩に帰宅したが、父親は家の中に入れてくれなかった。
そこで、隣の祖父母の家に行って事情を話して祖父母の家に泊めてもらった。
事件のことはまったく知らないし、私はこの事件と何の関係もありません。(引用:Yahoo知恵袋)
警察は、長女の話の裏付けを取って「長女には確実なアリバイがある」として、早いうちに容疑者のリストから外したようです。
そして、 長女は事件当時から一貫して袴田巌さんが犯人であると主張し、警察の捜査に協力していました。
唯一の生存者でありながら、袴田さんを犯人として指摘し続けたことが、周囲から疑念を呼ぶ要因となり、この証言が不気味と言われるようになったようです。
被害者の長女が真犯人説?
- 事件当日の不在
長女は事件当日、両親が嫌う従業員との交際が原因で勘当され、祖父母の家に泊まっていたのではないかと言われています。 - 証言の一貫性
長女は事件当時から一貫して袴田巌が犯人であると主張し、警察の捜査に協力していました。
唯一の生存者でありながら、袴田さんを犯人として指摘し続けたのは、警察の捜査方針に沿った証言をしていた可能性が指摘されています。 - 事件後の行動
事件後、長女は遺産を受け取り社長に就任しました。
この事実が、彼女の動機や行動について疑念を抱かせる要素となっています。 - 袴田さん釈放後の死亡
長女は袴田さんが釈放された翌日に自宅で亡くなっています。
死因については明確な情報がなく、自殺の噂も流れました。
このタイミングと状況が、「事件の真相を知る長女の口から何らかの情報が漏れる」のを恐れた主犯格の男が、自殺または病死に偽装して、長女を殺害したのではないか?との疑いをよんでいます。 - 周囲の意見
当時の近所の人々は袴田さんが犯人であるとは考えておらず、長女だけがそのように主張していたことも、この証言を不気味なものとして印象づけています。
事件直後から捜査員が袴田さんを犯人と決めつけていたと渡邊さんは振り返ります。
「口数は少なかったが、キャバレー太陽の従業員も袴田さんはそんなことやらないよねって。絶対無実しかないんだってみんなでそういってた」
Yahooニュース
一度に家族をすべて失うなんて、当時19歳の彼女からしたら相当の衝撃だったことでしょう。
まとめ|【闇】袴田事件で長女の証言が不気味だった?
たまたま事件当日に祖父母の元に泊まり、唯一の生き残った被害者の長女は、一貫して袴田巌さんを犯人として主張し続けたことが、「不気味」であったり、怪しいと思われた要因と考えられます。
ただし、これらはあくまで推測や疑念であり、長女自身の心情や事件当時の状況を完全に理解することは困難です。
袴田氏の無罪が確定した今、事件の真相解明に向けてさらなる調査が必要とされています。
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